みつきかいの独り言

家に帰る速さがトップクラスの高校生が思ったことを言うブログ

登校拒否だった陰キャ。

先月、まったく更新しなかった分を取り返すように投稿する私、みつきかいといいます。

 

高校三年間の振り返りとともに私にとっては大きいことがあったので別途書きたいと思いました。

 

私にとって大きいこととは登校拒否になったことです。

時期は高校一年生の二学期初め。期間は一週間と短いものでした。良く学校を休む人にとっては一週間は短いものだと思います。ですので年間30日以上の欠席が定義となる不登校というタイトルではなく登校拒否というワードをタイトルに付けました。

 

年に数日、体調不良で休むことがあるくらいの私にとって一週間をすべて休むというのは大きなことでした。

 

小学校中学校はほとんど周りの人間関係が変わることなく過ごしてきた私にとって、周りの人をすべて知らないという環境は高校が初めてでした。

 

中学校はとても緩いところだったので出せば偉いという環境で過ごしてきた中で私は、いきなり春休みの宿題を初日に忘れてしまいました。初めての宿題は当然のように皆、提出しているなかで忘れたと申告するのはとても怖かったです。その日は家に帰ると存在を知らなかった宿題を必死に探して、あまりの量に泣きながら宿題をしました。答えを写しただけですが。

 

そのことがきっかけでおかしくなったのだろうとこの文章を書いている今だからこそ冷静に分析できます。

次の日から授業が始まるということで様々な用意が必要になりました。鞄を持ち、家を出て駅まで歩いていると突然、ノートがないと気づきました。慣れていない電車のダイヤ、通学路。家に帰れば遅刻してしまうだろう恐怖からまたしても泣きながら家に一度帰って、自分の机を見るとノートはありませんでした。元々鞄の中に入っていたようです。入学したばかりということで時間に余裕をもって家を出たおかげで遅刻もせずに済みました。

ちなみに三年間で欠席は十日以上ついていますが、遅刻はゼロでした。

 

しなければならないことがいつくかあると何かが全くできなくなってしまって、パニックになって泣き出してしまうことが多くありました。本来卒業式でも映画でも泣くことがない私のこの状態はおかしかったのです。

 

朝、学校の最寄り駅から学校に歩いている途中に忘れものに気が付くことがあったときは泣きながら登校して、教室の自分の席でも静かに泣いていたり、そのことを家に帰る時までひきずって、劣等感により弱っているところで帰る電車が思いもよらぬ駅で止まってしまって帰れなくなってしまったのかと不安で泣いたりと入学して初めはひどいものだったと思います。

 

周りができて、私ができない。完璧でいなきゃ。劣等感や責められるのではないかという恐怖。初めはそれしか頭にありませんでした。しかし、そんな状態ではまともに頭が動かず何もかも分からなくなりパニックになる。そんなことに繰り返しでした。

 

クラスメイトとは話しましたが、すでに私が話し始めるころにはグループが少しずつ出来て、出席番号が近くて席が近かった人に昼食を誘ってもらえた時はうれしいよりもありがとうと感謝の気持ちが多くありました。そこは私はあまりなじめず一人蚊帳の外にいるような気がして、あたりさわりのないことしか話せませんでした。頼ることのできる友人はいませんでした。

 

一日に片手で数えるほどの人とのやり取りがなかった日もたくさんありましたが、何とか一学期が終わり夏休み。そして二学期が始まって一週間ほどたったとき、九月の初旬に大きなイベントがあってそこへ私は遊びに行きました。とても楽しくて、それが次の日のつらい学校との落差を強調していました。イベントの夜布団に入ると夜中泣き出して、涙が止まらなくなりました。学校に行きたくないと母親に言えば次の日は休ませてくれました。

 

休んだ日。家族はみな外へ出てクラスメイトは勉強している中で私は何もできずに家にいるだけ。休んだからと言って罪悪感と劣等感で好きなことが手につかず何もしませんでした。ごめんなさい、ごめんなさい。と思う気持ちがずっとありました。母親に連れられ憩いの家みたいな出入り自由な場所へ行き、人と話すことはなくとも人がいる環境が家よりも良かったので休み続けた一週間はほとんど毎日昼間からそこにいました。

学校をやめたいと思うことはあっても、やめようかなと考えたのはこの時だけでした。

 

一週間後どうやって学校に行くようになったのかというのは自分でもあまりはっきりしないのでわかりませんが、行かない選択肢がなくなったというのが近いのかなと思います。

 

その状況で一つ母親に言われたことがあって、

「頼れる人がいないのは、貴方が自ら声をかけることもせずに受け身だったからっていう自業自得のことでしょ。一人でいる強さもないのに、声をかけてもらえるのを待っているだけなのは傲慢じゃない?」

 

言い方は変えましたが、内容はこんな感じ。私は否定できませんでした。

そういう状況でこれ以上は休み続けるという選択肢がなくなり、学校に行くようになりました。

 

学校へ行くと一週間も休んでいたことに心配してくれる人や休んでいた分のノートを写させてくれ売る人などいい人ばかりでした。

 

私は登校拒否になった時期については恥ずかしい過去だとはそこまで思っていなくて、聞かれれば話すことができるくらいなものです。私は新しい環境でそういうことになってしまうのだなと、思うだけです。

そういう時期があったからこそ、三年間学校を通い続けて卒業できたことは自信になっています。

 

単位が取れるならば好きなだけ休めばいいと思う、皆勤賞とは無縁の私、みつきかいでした。

ここまで読んでくださりありがとうございました。